J.S.Bach Johannes-Passion
J.S.バッハ ヨハネ受難曲 BWV 245
解説及び歌詞対訳
淡野太郎
はじめに
・歌詞について
今回の使用楽譜はベーレンライター社の新バッハ全集であり、歌詞もほとんどすべてそれに拠っているが、ユダヤ人を意味する Jüde(単数)、Jüden(複数)という単語をそれぞれ
Jude、Juden(ウムラウト記号無し)に変更した。これはもともとは Judeという言葉だったが、当時の世相から差別的な意味合いを持つ Jüdchen(縮小名詞化している)等の単語が生まれ、そこから派生して
Jüdeという呼称が生まれた。マルティン・ルターもユダヤ人に対する感情は決して良好ではなかったこともあり、聖書を独語訳するにあたってこの Jüdeという語を採用した、といういきさつがある。バッハが作曲した当時の発音にこだわるのならそのまま
Jüdeと歌うのもひとつの手だが、今回の演奏に際し私はそういう事情を鑑みたうえで、本来の形である Judeを採用することとした。
・使用楽譜及び楽器編成について
バッハは自身の「ヨハネ受難曲」を生前に少なくとも4回演奏したといわれており、その4回の演奏の度に楽譜を書き直したことが広く知られている(この4パターンの楽譜の他に、さらに21頁書いただけで中断してしまった未完の総譜が存在する)。バッハ晩年に演奏された時(俗に第4版と呼ばれる)の楽器編成は、当時としては異例の大編成だったようで、通奏低音のパート譜だけで5つもあり(これに加えてチェンバロ用の第19曲のみのピース譜がある)、そのうちのひとつには
pro Bassono großoと書かれており、これはコントラファゴットのことを指すのではないかと考えられている。
今回私はそれを踏まえ(他のどのパート譜よりも通奏低音用のものが多いという事実)、楽器群の中で通奏低音を最も大きい編成とすることを試みた。モダン楽器の編成であってもコントラファゴットを投入してみたいというのは私の約10年来の構想で、本日ようやくそれが実現することを楽しみにしている。
その他に第19曲及び第20曲に登場するヴィオラ・ダモーレやリュートといった楽器は今回は諸般の理由から投入を見送った。バッハ自身、晩年の演奏(第4版)では弱音器を付けたヴァイオリン、チェンバロで代用しており、本日はその編成を採用する。
かといってすべて第4版の楽譜を採用するわけではなく、音符や歌詞は第1版及び未完のスコアを組み合わせたもの(ほぼ新バッハ全集の楽譜通り)を使用する。今回私の目的はバッハが演奏した当時の音を忠実に再現することではなく、与えられた条件のもと、我々にとって最良の音と思われるものを表現していくことなので、その点をご理解いただければ幸いである。
・コラールの位置付け
宗教改革後、ルターは教会に集う一般の会衆がともに讃美出来るようにと、当時の民謡や流行歌の平易な旋律を選び出し(これなら皆が旋律を聴き知っているので、楽譜が読めなくても歌える)、それにドイツ語の歌詞を付け(これでラテン語等、外国語の素養がなくても歌える)、礼拝の中で歌わせることを奨励した。これがコラールの原型である。この「会衆全員で歌う」という伝統は現在も続き、世界中の教会で老若男女、音楽経験の有無を問わず全員が歌う、という形の讃美歌が歌われている。
そこで私は今回そのコラールの原点に立ち返り、曲中のコラールの演奏時には、不必要なダイナミクスやテンポの揺れ、大げさな感情表現などを避け、なるべく素朴に、しかし力強く歌うことを心がけた。歌詞はドイツ語とはいえ、コラールを歌っていたドイツ人にとっては母国語なので、語順により生ずる歌詞の流れや発音等には相応の注意を払ったことも付記しておく。
解説及び歌詞対訳
Erster Teil
第1部
自由詩による大規模な合唱曲で幕を開ける(1)。通奏低音の地底から湧き上がってくるかのような同音の反復が曲にエネルギーを与え、フルートとオーボエが半音ずれた状態で重なることによる果てしない不協和音の連続が、定められた受難が妥協なき不動のものであることを暗示し、ヴァイオリンは16分音符による旋回音型を延々と繰り返すことによって波立つような不安感(あるいは波動そのもの)を示し、天地万物が安住を知ることなく流転している様子を描いている。ヴィオラは8分音符による音型で何者かの強い意図を現したかと思うと、ヴァイオリンと同じ音型で自然の波動の中に紛れ込んでしまったりと、この種の「意思」が必ずしも万人の目に示されてはいないかのようである。そういった不安に満ちた世界の中で、合唱はそうするより他に何も出来ないところにまで追い詰められ、ついに爆発的に「主よ!」と呼びかける。信徒たちの祈りに応えて世界はその姿を微妙に変えるが、ヴァイオリンが担当していた16分音符による不安げな波動は通奏低音や木管楽器に受け渡され、それはこの楽章の終わりまでほとんど途切れることなく続く。弦楽器たちは鋭いスタッカートによって、十字架に打ち込まれる釘の音を暗示する。この音は揺らぐことなく時を刻み、目前に迫っている受難が不可避のものであることを容赦なく告げる。そのような絶望的状況の中でも合唱は一斉に、あるいは畳み掛けるようなフーガで祈り続ける。
1. |
1. |
[Chor] |
合唱 |
Herr, unser Herrscher, dessen Ruhm |
主、我らの統治者よ、あなたの誉れは |
In allen Landen herrlich ist! |
あまねく全地に輝かしく満ちています。 |
Zeig uns, durch deine Passion, |
あなたのご受難を通してお示し下さい |
Daß du, der wahre Gottessohn, |
あなたがまことの神の子であられ |
Zu aller Zeit, |
すべての時に |
Auch in der größten Niedrigkeit, |
卑しめの極みにあられる時にも |
Verherrlicht worden bist! |
讃美をお受けになる方だと! |
受難物語はヨハネによる福音書の第18章冒頭から始まる(2a)。イエスを捕えるため、祭司長たちの手下たちがユダの手引きでやってくるが、まだ未明で暗いせいもあったのか、武装しているにも関わらず少々弱気な印象である。イエスが「それは私だ」と答えるや、たちまち後ずさりして尻餅をついてしまうなど、実にだらしない姿で描かれている(2c)。イエスの問いかけに対して答えるその声は強拍(1、3拍目)ではなく弱拍(2、4拍目)に配置され、2回とも比較的高音から始まっているあたり、彼らの弱腰ぶりを見出すことが出来る(2b、d)。対するイエスの言葉はペトロに対するものも含め、苦悩や葛藤など人間的な弱みを見せることなく、それは曲の終わりまで揺らぐことなく続く。
2a. |
2a. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Jesus ging mit seinen Jünger über den Bach |
イエスは弟子たちを連れてキドロンの川を渡って行き、 |
Kidron, da war ein Garten, darein ging Jesus |
そこにある園に弟子たちとともに入っていった。 |
und seine Jünger. Judas aber, der ihn verriet, |
イエスを裏切ったユダもその場所を知っていた。 |
wußte den Ort auch,denn Jesus versammlete |
そこでイエスがしばしば弟子たちと集合していたからである。 |
sich oft daselbst mit seinen Jüngern. |
Da nun Judas zu sich hatte genommen die Schar |
その時ユダは一隊の集団と、祭司長たちや |
und der Hohenpriester und Pharisaer Diener, |
ファリサイ派の者たちの手下を連れてそこにやって来た。 |
kommt er dahin mit Fackeln, Lampen |
松明、ランプを持ち、武装していた。 |
und mit Waffen. |
Als nun Jesus wußte alles, was ihm begegnen |
イエスはご自身に何が起こるのかをすべて知って |
sollte, ging er hinaus und sprach zu ihnen: |
いたので、出て行って彼らに言った。 |
|
|
[Jesus] |
[イエス] |
Wen suchet ihr? |
誰を捜している? |
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Sie antworteten ihm: |
彼らは答えた。 |
|
|
2b. |
2b. |
[Chor] |
[合唱] |
Jesum von Nazareth. |
ナザレのイエスだ。 |
|
|
2c. |
2c. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Jesus spricht zu ihnen: |
イエスは彼らに言う。 |
|
|
[Jesus] |
[イエス] |
Ich bin's. |
私がそれだ。 |
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Judas aber, der ihn verriet, stund auch bei ihnen. |
イエスを裏切ったユダも、彼らの傍らに立っていた。 |
Als nun Jesus zu ihnen sprach: Ich bin's, |
イエスが彼らに「私がそれだ」と言った時、 |
wichen sie zurücke und fielen zu Boden. |
彼らは後ろに下がって地面に倒れた。 |
Da fragete er sie abermal: |
そこでイエスは再度尋ねた。 |
|
|
[Jesus] |
[イエス] |
Wen suchet ihr? |
誰を捜している? |
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Sie aber sprachen: |
彼らは言った。 |
|
|
2d. |
2d. |
[Chor] |
[合唱] |
Jesum von Nazareth. |
ナザレのイエスだ。 |
|
|
2e. |
2e. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Jesus antwortete: |
イエスは答えた。 |
|
|
[Jesus] |
[イエス] |
Ich hab's euch gesagt, daß ich's sei, |
「私がそれだ」と言っただろう。 |
suchet ihr denn mich, |
あなた方は私を捜しているのだし、 |
so lasset diese gehen! |
この者たちは行かせてやりなさい。 |
|
|
3. |
3. |
[Choral] |
[コラール] |
O große Lieb, o Lieb ohn alle Maße, |
おお大いなる愛、おお如何様にも計り知れぬ愛、 |
Die dich gebracht auf diese Marterstraße! |
それこそがこの苦難の道行にあなたを連れ出した! |
Ich lebte mit der Welt in Lust und Freuden, |
私はこの世と共に愉悦と歓喜に生き、 |
Und du mußt leiden. |
そしてあなたは苦しまなければならぬ。 |
ペトロが勇敢にも剣で打ちかかっていくが、イエスはそれを諌める(4)。バッハは「父がお与えくださった杯」という部分を繰り返して2度歌わせ、受難が予め定められた不可避のものであることを強調している。
4. |
4. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Auf daß das Wort erfüllet würde, |
それはイエスが言ったこの言葉が成就する |
welches er sagte: Ich habe der keine verloren, |
ためであった。「私はあなたがお与えくださった者を |
die du mir gegeben hast. |
誰一人失いませんでした。」(ヨハネ17:12) |
Da hatte Simon Petrus ein Schwert und zog es |
シモン・ペトロは剣を持っており、それを抜いて |
aus, und schlug nach des Hohenpriesters Knecht, |
祭司長の下僕めがけて打ち下ろし、 |
und hieb ihm sein recht Ohr ab; |
その右耳を切り落とした。 |
und der Knecht hieß Malchus. |
その下僕の名はマルコスといった。 |
Da sprach Jesus zu Petro: |
そこでイエスはペトロに言った。 |
|
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[Jesus] |
[イエス] |
Stecke dein Schwert in die Scheide! |
剣を鞘に納めなさい。 |
Soll ich den Kelch nicht trinken, |
この杯は飲むべきであろう、 |
den mir mein Vater gegeben hat? |
父が私に下さったものなのだから。 |
|
|
5. |
5. |
[Choral] |
[コラール] |
Dein Will gescheh, Herr Gott, zugleich |
あなたのご意志が、主なる神よ、 |
Auf Erden wie im Himmelreich. |
天にある如く地にも成させたまえ、 |
Gib uns Geduld in Leidenszeit, |
苦難の時、我らに忍耐を与えたまえ、 |
Gehorsam sein in Lieb und Leid; |
愛と苦しみの中にあって従順でいられるように。 |
Wehr und steur allem Fleisch und Blut, |
すべての肉と血を防ぎ、制御したまえ、 |
Das wider deinen Willen tut! |
あなたのご意志に背くものどもを! |
イエスは捕縛され、アンナスの屋敷に連行される(6)。ここで大祭司カイアファの発言が引用されるが、これは単にイエスを殺すためだけの助言ではない。彼がこのように発言した場面をヨハネはこのように記している。
その年の大祭司であるカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。
(ヨハネ11:49-52、新共同訳聖書より)
この次のアリア(7)の旋律Von den Strickenが、この預言が成就する場面のEs ist vollbracht(30)と同型の旋律、同じアルトによるものを配置したことに、バッハの深い洞察を見出せる。
6. |
6. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Die Schar aber und der Oberhauptmann |
その部隊と隊長、 |
und die Diener der Juden nahmen Jesum |
そしてユダヤ人の下役たちはイエスを捕らえて |
und bunden ihn und führeten ihn aufs erste |
縛り上げ、まずその年の大祭司カイアファの舅 |
zu Hannas,der war Kaiphas Schwäher, |
大祭司カイアファの舅であるアンナスのところへ |
welcher des Jahres Hohenpriester war. |
連行していった。 |
Es war aber Kaiphas, der den Juden riet, |
ユダヤ人たちにこう助言していたのはカイアファで |
es wäre gut, das ein Mensch würde umbracht |
あった。「ひとりの人間が民衆のために死ぬのが |
für das Volk. |
好都合だ」(ヨハネ11:50)。 |
|
|
7. |
7. |
[A-Arie] |
[アルト・アリア] |
Von den Stricken meiner Sünden |
私の罪の縄目から |
Mich zu entbinden, |
私を解き放つために |
Wird mein Heil gebunden. |
私の救い主は縛り上げられた。 |
Mich von allen Lasterbeulen |
私をすべての悪徳の腫瘍から |
Völlig zu heilen, |
完治させようと |
Läßt er sich verwunden. |
彼は自ら傷つかれたのだ。 |
ふたりの弟子が連行されるイエスについて行く(8)。続いてソプラノによって歌われるアリア(9)の歌詞の内容は殊勝で、模範的な信徒のものともいえる。しかし一見軽やかに舞うかのようなフルートの旋律は、バッハが作曲した当時のフラウト・トラヴェルソで正確に吹くには、クロスフィンガリングも多く決して易しい部類のものではないこと、まったく同じ旋律を2本ユニゾンで吹かなければならない緊張感、またほとんどの小節で1拍目または3拍目を欠いている通奏低音の足取りの危うさ等に留意する必要がある。
8. |
8. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Simon Petrus aber folgete Jesu nach |
シモン・ペトロともうひとりの弟子が |
und ein ander Jünger. |
イエスの後について行った。 |
|
|
9. |
9. |
[S-Arie] |
[ソプラノ・アリア] |
Ich folge dir gleichfalls mit freudigen Schritten |
私もまた喜びの歩調をもって従います。 |
Und lasse dich nicht, |
そしてあなたを離しません、 |
Mein Leben, mein Licht. |
わが生命、わが光よ。 |
Befördre den Lauf |
歩みを促して下さい、 |
Und höre nicht auf, |
そしてやめないで下さい、私の傍で |
Selbst an mir zu ziehen, zu schieben, zu bitten. |
あなた御自ら引き、押し、願うことを。 |
場面は大祭司の邸宅。軽口とも取れるような下女の口調、イエスの弟子と疑われて浮き足立つペトロ、血気にはやってつい手が出る下役など、小さな役柄もソリストによって表情豊かに語られる(10)。
10. |
10. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Derselbige Jünger war dem Hohenpriester |
この弟子は大祭司と知り合いだったので、 |
bekannt und ging mit Jesu hinein in des |
イエスとともに大祭司の屋敷に入っていったが、 |
Hohenpriesters Palast. |
Petrus aber stund draußen für der Tür. |
ペトロは戸口の外に立っていた。 |
Da ging der andere Jünger, |
そこで大祭司の知り合いの弟子が出て行き、 |
der dem Hohenpriester bekannt war, |
hinaus und redete mit der Türhüterin |
出て行き、門番の女に話して、 |
und führete Petrum hinein. |
ペトロを中に連れ込んだ。 |
Da sprach die Magd,die Türhüterin, zu Petro: |
門番を務めていた下女はペトロに言った。 |
|
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[Magd] |
[下女] |
Bist du nicht dieses Menschen Jünger einer? |
あんた、あの人の弟子じゃないの? |
|
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[Evangelist] |
[福音史家] |
Er sprach: |
ペトロは言った。 |
|
|
[Petrus] |
[ペトロ] |
Ich bin's nicht. |
俺じゃない。 |
|
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[Evangelist] |
[福音史家] |
Es stund aber die Knechte und Diener |
下僕たちと下役たちは |
und hatten ein Kohlfeu'r gemacht |
炭火を起こして |
(denn es war kalt) und wärmeten sich. |
(寒かったので)暖を取っていた。 |
Petrus aber stund bei ihnen und wärmete sich. |
ペトロは彼らのそばに立って暖まっていた。 |
Aber der Hohepriester fragte Jesum |
大祭司はイエスに |
um seine Jünger und um seine Lehre. |
弟子たちや彼の教えについて尋問した。 |
Jesus antwortete ihm: |
イエスは彼に答えた。 |
|
|
[Jesus] |
[イエス] |
Ich habe frei, öffentlich geredet für der Welt. |
私は世界に対し、自由に、公然と話してきた。 |
Ich habe allezeit gelehret in der Schule |
いつでもユダヤ人たちみんなが集まる会堂や |
und in dem Tempel, da alle Juden |
神殿で教え、 |
zusammenkommen |
und habe nichts im Verborgnen geredt. |
包み隠して話したことは何一つない。 |
Was fragest du mich darum? |
なぜ私にそのことを訊くのか。 |
Frage die darum, die gehöret haben, |
それについては私が話したことを聞いた者たちに |
was ich zu ihnen geredet habe! |
尋ねるがよい。 |
Siehe, dieselbigen wissen, was ich gesaget habe. |
見よ、その者たちは私が何を言ったのか知っている。 |
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Als er aber solches redete, |
イエスがこのように話していた時、 |
gab der Diener einer, die dabei stunden, |
傍らに立っていた下役のひとりが |
Jesu einen Backenstreich und sprach: |
イエスに平手打ちを喰らわせて言った。 |
|
|
[Diener] |
[下役] |
Solltest du dem Hohenpriester also antworten? |
まさか大祭司さまにそういう受け答えをするとは? |
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Jesus aber antwortete: |
イエスは答えた。 |
|
|
[Jesus] |
[イエス] |
Hab ich übel geredt, so beweise es, |
私が悪いことを話したのなら、 |
daß es böse sei, |
悪いところを証明しなさい。 |
hab ich aber recht geredt, |
しかし正しいことを話したのなら、 |
was schlägest du mich? |
なぜ私を殴るのか? |
|
|
11. |
11. |
[Choral] |
[コラール] |
Wer hat dich so geschlagen, |
誰があなたをこれほどに打ったのか |
Mein Heil, und dich mit Plagen |
わが救いよ、あなたに労苦とともに |
So übel zugericht'? |
ここまでひどい痛めつけを加えるとは? |
Du bist ja nicht ein Sünder |
あなたは無論罪びとではない、 |
Wie wir und unsre Kinder, |
我々やその子孫らのようには。 |
Von Missetaten weißt du nicht. |
悪行から来たるものをあなたは知らぬ。 |
|
|
Ich, ich und meine Sünden, |
私、私と私の罪こそが |
Die sich wie Körnlein finden |
粉粒のように無数に見つかるのだ |
Des Sandes an dem Meer, |
それは浜の真砂のよう。 |
Die haben dir erreget |
それが引き起こしたのだ、 |
Das Elend, das dich schläget, |
あなたを打ち襲う悲惨 |
Und das betrübte Marterheer. |
そして痛ましき数多の責め苦を。 |
中庭で様子をうかがっていたペトロを周囲の人々が見とがめ(12a)、合唱が追い詰めるかのように調子を強めながら詰問する(12b)。ペトロは再び否定するが、その音は先程より全音高くなっており、より追い詰められた様子を現わしている。イエスの逮捕現場の目撃者まで現れ、三たび否定したペトロだったが、通奏低音が独特の音型で奏でる鶏の鳴き声を聞き、我に返る。ヨハネはこの場面では鶏が鳴くところまでしか伝えていないが、バッハはマタイ伝を引用することによって、その直後のペトロの慟哭を見事に表現している(12c)。続くアリア(13)を含め、これらのあまりにも劇的なメッセージは、人間が根源的に持っているその弱さにより、誰もが裏切者になり得るという現実を噛み締めさせる。
12a. |
12a. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Und Hannas sandte ihn gebunden |
そしてアンナスはイエスを縛り上げたまま |
zu dem Hohenpriester Kaiphas. |
祭司長カイアファの許に送った。 |
Simon Petrus stund und wärmete sich, |
シモン・ペトロが立って暖を取っていたら、 |
da sprach sie zu ihm: |
周りの人々が彼に言った。 |
|
|
12b. |
12b. |
[Chor] |
[合唱] |
Bist du nicht seiner Jünger einer? |
お前はあいつの弟子じゃないのか? |
|
|
12c. |
12c. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Er leugnete aber und sprach: |
彼は否定して言った。 |
|
|
[Petrus] |
[ペトロ] |
Ich bin's nicht. |
俺は違う。 |
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Spricht des Hohenpriesters Knecht' einer, |
大祭司の下僕のひとりで、 |
ein Gefreundter des, dem Petrus |
ペトロに耳を切り落とされた人の |
das Ohr abgehauen hatte: |
仲間の者が言う |
|
|
[Knecht] |
[下僕] |
Sahe ich dich nicht im Garten bei ihm? |
俺、園の中であいつの傍にお前がいたのを見たよな? |
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Da verleugnete Petrus abermal,und alsobald |
ペトロがまた否認するやいなや、 |
krähete der Hahn. |
鶏が鳴いた。 |
|
|
Da gedachte Petrus an die Worte Jesu |
ペトロはイエスの言葉を思い出し、外に出て行って |
und ging hinausund weinete bitterlich. |
号泣した。(この部分マタイ26:75より) |
|
|
13. |
13. |
[T-Arie] |
[テノール・アリア] |
Ach, mein Sinn, |
ああわが思慮よ、 |
Wo willt du endlich hin, |
お前はついには何処へ行くつもりか、 |
Wo soll ich mich erquicken? |
私はこれをどう払拭出来るのか? |
Bleib ich hier, |
ここに私は留まるべきか、 |
Oder wünsch ich mir. |
それとも望むのか、 |
Berg und Hügel auf den Rücken? |
山や丘を背負っていくことを? |
Bei der Welt ist gar kein Rat, |
方策はこの世には皆無、 |
Und im Herzen |
そして心の中には |
Stehn die Schmerzen |
苦痛が居座る、 |
Meiner Missetat, |
私の悪行による痛みが。 |
Weil der Knecht den Herrn verleugnet hat. |
下僕が主を否んでしまったが故に。 |
|
|
14. |
14. |
[Choral] |
[コラール] |
Petrus, der nicht denkt zurück, |
ペトロ、思い返すことなく |
Seinen Gott verneinet, |
自分の神を否認し、 |
Der doch auf ein' ernsten Blick |
しかし真剣な眼差しに打たれ |
Bitterlichen weinet. |
激しく泣く。 |
Jesu, blicke mich auch an, |
イエスよ、どうか私にも眼差しを。 |
Wenn ich nicht will büßen; |
私が悔い改めようとせぬ時 |
Wenn ich Böses hab getan, |
また私が悪を行いし時に |
Rühre mein Gewissen! |
私の良心をかき立てたまえ! |
Zweiter Teil
第2部
15. |
15. |
[Choral] |
[コラール] |
Christus, der uns selig macht, |
キリスト、我々に至福をもたらす者、 |
Kein Bös' hat begangen, |
ただひとつの悪事も行わずして |
Der ward für uns in der Nacht |
我々のために真夜中に |
Als ein Dieb gefangen, |
盗賊のように捕らえられ |
Geführt für gottlose Leut |
神無き者どもの前に引き出され |
Und fälschlich verklaget, |
虚偽の告発を受け、 |
Varlacht, verhöhnt und verspeit, |
嘲笑され、愚弄され、そして唾された。 |
Wie denn die Schrift saget. |
預言書が語る通りだった。 |
さて、ユダヤ人たちはイエスを死罪と認定したものの、当時のユダヤはローマ帝国の属国、許可なしに死刑を執行することは出来ない。そこで当時ユダヤ地方を納めていたローマ総督ピラトのもとへ許可を求めに行く。ピラトはユダヤ人に対し支配者として傲岸不遜な態度で接していたし、選民意識の強いユダヤ人にとってみればローマ人は(政治的には自分たちが被支配者であるにも関わらず)異邦人であり蔑みの対象、両者間の感情は良くはなかった。そのせいもあってか訴え出た祭司長たちの態度もいささか礼を欠いている(早朝に訪ねて行き、身が汚れるからと官邸に足を踏み入れず、ピラトに出て来させた)(16a)。関わりたくないという態度を取るピラトだが(16c)、ユダヤ人たちの剣幕(不退転の決意を感じさせるような半音進行が繰り返される)に気圧され(16b、d)、またユダヤ人とのいざこざをなるべく避けなければならない立場であったゆえ、不承不承イエスの取調べを始める(16e)。
16a. |
16a. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Da führeten sie Jesum von Kaipha |
人々はイエスをカイアファの許から |
vor das Richthaus, und es war frühe. |
総督官邸に連行した。早朝であった。 |
Und sie gingen nicht in das Richthaus, |
彼らは官邸内に足を踏み入れなかった |
auf daß sie nicht unrein würden, |
汚れを受けずに |
sondern Ostern essen möchten. |
過越の食事を守りたかったからである。 |
Da ging Pilatus zu ihnen heraus und sprach: |
そこでピラトが彼らのところへ出て来て言った。 |
|
|
[Pilatus] |
[ピラト] |
Was bringet ihr für Klage wider diesen Menschen? |
この者に対して、どういうかどで訴訟を起こすのか? |
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Sie antworteten und sprachen zu ihm: |
彼らはピラトに答えて言った。 |
|
|
16b. |
16b. |
[Chor] |
[合唱] |
Wäre dieser nicht ein Übeltäter, |
この者が罪人でないのならば、 |
wir hätten dir ihn nicht überantwortet. |
我々は彼を引き渡しはしなかったでしょう。 |
|
|
16c. |
16c. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Da sprach Pilatus zu ihnen: |
そこでピラトは彼らに言った。 |
|
|
[Pilatus] |
[ピラト] |
So nehmet ihn ihr hin und richtet ihn |
ならばそいつを連れて行き、 |
nach eurem Gesetze! |
お前たちの律法で裁くがよかろう。 |
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Da sprachen die Juden zu ihm: |
ユダヤ人たちはピラトに言った。 |
|
|
16d. |
16d. |
[Chor] |
[合唱] |
Wir dürfen niemand töten. |
我々には人を死刑にする権限がございません。 |
|
|
16e. |
16e. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Auf daß erfüllet würde das Wort Jesu, |
それはイエスがどのように死ぬの |
welches er sagte, da er deutete, |
示すために彼が語った言葉が |
welches Todes er sterben würde. |
成就するためであった(ヨハネ12:20-33)。 |
Da ging Pilatus wieder hinein in das Richthaus |
ピラトは再び官邸に入って行き、 |
und rief Jesu und sprach zu ihm: |
イエスを呼んで言った。 |
|
|
[Pilatus] |
[ピラト] |
Bist du der Juden König? |
お前がユダヤ人の王か? |
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Jesus antwortete: |
イエスは答えた。 |
|
|
[Jesus] |
[イエス] |
Redest du das von dir selbst, |
あなたは自分自身でそう話すのか、 |
oder haben's dir andere von mir gesagt? |
それとも他の者が私についてそう言ったのか? |
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Pilatus antwortete: |
ピラトは答えた。 |
|
|
[Pilatus] |
[ピラト] |
Bin ich ein Jude? |
余がユダヤ人だとでも? |
Dein Volk und die Hohenpriester haben dich mir |
お前の民と祭司長どもがお前を余に |
überantwortet; was hast du getan? |
引き渡してきたのだ。いったい何をしたのだ? |
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Jesus antwortete: |
イエスは答えた。 |
|
|
[Jesus] |
[イエス] |
Mein Reich ist nicht von dieser Welt; |
私の王国はこの世のものではない。 |
wäre mein Reich von dieser Welt, |
もしこの世のものであれば、 |
meine Diener würden darob kämpfen, |
私の配下の者たちが |
daß ich den Juden nicht überantwortete würde; |
私がユダヤ人たちに引き渡されないために |
aber nun ist mein Reich nicht von dannen. |
戦うだろう。しかし今、私の王国はここにはない。 |
|
|
17. |
17. |
[Choral] |
[コラール] |
Ach großer König, groß zu allen Zeiten, |
ああ偉大なる王、全ての時にあって偉大な御方よ、 |
Wie kann ich gnugsam diese Treu ausbreiten? |
いかに十全にそのまことを伝えられようか? |
Keins Menschen Herze mag indes ausdenken, |
誰ひとりとしてあなたに何を捧げるべきか |
Was dir zu schenken. |
心に思い至らない。 |
|
|
Ich kann's mit meinen Sinnen nicht erreichen, |
私の思いをもっては至ることが出来ない、 |
Womit doch dein Erbarmen zu vergleichen. |
あなたの憐れみとは比べものにならぬ。 |
Wie kann ich dir denn deine Liebestaten |
あなたの愛の御業に私は |
Im Werk erstatten? |
いかなる行いをもって報い得ようか? |
ピラトはイエスに尋問するが、満足するような答えは得られない。ローマに対する反逆者ならば裁かねばならないが、それを立証する材料はない。だからイエスを無罪放免したいが、たくさんのユダヤ人を前に無罪を宣告して騒ぎが起こるのも困る。そうだ、確か連中は明後日から祭りじゃないか…そう思いついたピラトは恩赦を提案する(18a)。しかし、ユダヤ人たちが釈放を要求した囚人は驚いたことに、殺人犯で暴動を扇動していたという札付きの反逆者、バラバであった。2bや2d、さらに16dでは長く拡大して示されるヴァイオリンやフルートによる16分音符のヒステリックなパッセージに、今度はオーボエまでもが加わり、尋常でない雰囲気を煽っている(18b)。事態の異常さを感じたピラトは、イエスを無罪のまま放免するのは難しいと判断、鞭打ちの刑を言い渡す。通奏低音による付点を伴う跳躍音型が、金具で破壊力を増した鞭が肉に喰い込む様子を生々しく表現する(18c)。
18a. |
18a. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Da sprach Pilatus zu ihm: |
そこでピラトはイエスに言った。 |
|
|
[Pilatus] |
[ピラト] |
So bist du dennoch ein König? |
ならばやはりお前は王なのか? |
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Jesus antwortete: |
イエスは答えた。 |
|
|
[Jesus] |
[イエス] |
Du sagst's, ich bin ein König. |
あなたが言っている、私が王だと。 |
Ich bin dazu geboren und in die Welt kommen, |
私は真理を示すために生まれ、 |
daß ich die Wahrheit zeugen soll. |
この世に来た。 |
Wer aus der Wahrheit ist, |
真理より来たる者は、 |
der höret meine Stimme. |
私の声を聞く。 |
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Spricht Pilatus zu ihm: |
ピラトはイエスに言う。 |
|
|
[Pilatus] |
[ピラト] |
Was ist Wahrheit? |
真理、とな? |
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Und da er das gesaget, |
そう言ってから、 |
ging er wieder hinaus |
またユダヤ人のところに出て行き |
zu den Juden und spricht zu ihnen: |
彼らに言う。 |
|
|
[Pilatus] |
[ピラト] |
Ich finde keine Schuld an ihm. |
余はあの男に何の罪も見出せぬ。 |
Ihr habt aber eine Gewohnheit, |
ところでお前たちには |
daß ich euch einen losgebe; wollt ihr nun, |
(祭りに際し罪人を)ひとり釈放する慣例がある。 |
daß ich euch der Juden König losgebe? |
そこで今、ユダヤ人の王を釈放することを望むか? |
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Da schrieen sie wieder allesamt und sprachen: |
すると彼らはまた一斉に叫んで言った。 |
|
|
18b. |
18b. |
[Chor] |
[合唱] |
Nicht diesen, sondern Barrabam! |
そいつじゃない、バラバのほうを! |
|
|
18c. |
18c. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Barrabas aber war ein Mörder. |
そのバラバは殺人犯であった。 |
Da nahm Pilatus Jesum und geißelte ihn. |
ピラトはイエスを捕らえ、鞭打ちの刑を処した。 |
むごたらしく痛々しいこの場面にあって、最初にバス、次にテノールがこの受難に隠された真実を告げ知らせようと歌う(19、20)。2挺のヴィオラ・ダモーレ(本日は弱音器付きのヴァイオリンで演奏)による美しい旋律が、痛めつけられた皮膚をそっと愛撫するかのように舞うものの、強拍を避ける音型が多用され、割り切れない、理不尽な思いを隠しきれていない。
19. |
19. |
[B-Arioso] |
[バス・アリオーゾ] |
Betrachte, meine Seel, |
とくと見よ、わが魂よ、 |
mit ängstlichem Vergnügen, |
不安気な満足と |
Mit bittrer Lust und halb beklemmten Herzen |
苦き悦楽、そして半ば締め付けられた心とともに |
Dein höchstes Gut in Jesu Schmerzen, |
お前の最良の宝はイエスの苦痛の中に |
Wie dir auf Dornen, so ihn stechen, |
彼を刺す茨の上にお前のための |
Die Himmelsschlüsselblumen blühn! |
天の鍵の花(桜草、プリムラ)が咲いている。 |
Du kannst viel süße Frucht |
お前は数多の甘い果実を |
von seiner Wermut brechen, |
彼の苦よもぎから摘み取ることが出来るのだ。 |
Drum sieh ohn Unterlaß auf ihn! |
それだから絶え間なく彼に目を向けておれ! |
|
|
20. |
20. |
[T-Arie] |
[テノール・アリア] |
Erwäge, wie sein blutgefärbter Rücken |
熟慮せよ、彼の血染めの背の |
In allen Stücken |
あらゆる部分に |
Dem Himmel gleiche geht, |
いかに天の姿が映っているのかを、 |
Daran, nachdem die Wasserwogen |
そこに大波、 |
Von unsrer Sündflut sich verzogen, |
即ち我らの罪の洪水より生じたものが去った後、 |
Der allerschönste Regenbogen |
何ものよりも美しい虹が |
Als Gottes Gnadenzeichen steht! |
神の恵みのしるしとして現われることを! |
ピラト配下のローマ兵たちは鞭打たれたイエスをさらに辱めようと、茨の冠をかぶせ、紫の衣(紫は主に王侯貴族が身にまとう高貴な色であった)を着せて(21a)、大げさに芝居がかった口調で王様ごっこに興じる。ここではフルートとオーボエによる急速でしかも絡みつくようなパッセージが囃し立て、聴く者の神経を逆なでする(21b)。ピラトはなおもイエスを放免しようと(バラバを放免したくないという思いも大いにあっただろう)、さんざん痛めつけられみじめで無力な姿のイエスを示すことで、群集の感情を鎮めようと試みる(21c)。しかしそんなイエスを見て祭司長たちは「十字架につけよ」と大声で叫ぶ。1曲目の木管楽器に見られるような半音を重ねた不協和音によって妥協なき要求が歌われ、弦楽器は煽り立てるように何度も
kreuzige, kreuzige と繰り返す。彼らの扇動は周囲を巻き込み、最後にはまるで全人類の総意であるかのように声を揃え、一斉に「十字架につけよ!」と叫ぶ(21d)。ピラトは騒ぎが大きくなる責任から逃れようと手を引こうとするが(21e)、ユダヤ人たちは自分たちの律法を盾に、断固イエスの死刑を要求する。祭司長や律法学者たちの形式主義、四角四面な物の考え方が厳格なフーガ技法で表現されている(21f)。ピラトは騒ぎが拡大しないようイエスを再び官邸内に連れ戻し、再度尋問する。自分の権威をひけらかしてなんとか証言を引き出そうとするが、そういう脅しでイエスの態度が変わるはずもなく、やはり反逆者として立証出来るだけの材料はどこにも見出せない。ユダヤ人の言いなりになるものか、との思いもあり、彼はイエスを釈放しようと努める(21g)。
21a. |
21a. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Und die Kriegsknechte flochten eine Krone |
そして兵隊たちは茨で冠を編み、 |
von Dornen und satzten sie auf sein Haupt |
イエスの頭にかぶせ、 |
und legten ihm ein Purpurkleid an und sprachen: |
紫色の衣を着せて言った。 |
|
|
21b. |
21b. |
[Chor] |
[合唱] |
Sei gegrüset, lieber Judenkönig! |
ご機嫌うるわしゅう、親愛なるユダヤの王様よ! |
|
|
21c. |
21c. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Und gaben ihm Backenstreiche. Da ging Pilatus |
そして彼に平手打ちした。ピラトは |
wieder heraus und sprach zu ihnen: |
また出て来てユダヤ人たちに言った。 |
|
|
[Pilatus] |
[ピラト] |
Sehet, ich führe ihn heraus zu euch, daß ihr |
見るがよい、余は彼をお前たちの前に連れ出そう。 |
erkennet, daß ich keine Schuld an ihm finde. |
それで彼に何の罪も見出せないことが分かる。 |
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Also ging Jesus heraus |
こうしてイエスが出て来た。 |
und trug eine Dornenkrone und Purpurkleid. |
茨の冠と紫色の衣を身に着けていた。 |
und Purpurkleid. Und er sprach zu ihnen: |
ピラトは彼らに言った。 |
|
|
[Pilatus] |
[ピラト] |
Sehet, welch ein Mensch! |
見よ、この者はいかに! |
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Da ihn die Hohenpriester und die Diener sahen, |
祭司長たちと下役たちはイエスを見るや、 |
schrieen sie und sprachen: |
叫んで言った。 |
|
|
21d. |
21d. |
[Chor] |
[合唱] |
Kreuzige, Kreuzige! |
十字架だ、十字架につけろ! |
|
|
21e. |
21e. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Pilatus sprach zu ihnen: |
ピラトは彼らに言った。 |
|
|
[Pilatus] |
[ピラト] |
Nehmet ihr ihn hin und kreuziget ihn; |
お前たちがこの者を連れて行って十字架につけよ、 |
denn ich finde keine Schuld an ihm! |
余には何の咎も認められぬのだからな! |
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Die Juden antworteten ihm: |
ユダヤ人たちはピラトに答えた。 |
|
|
21f. |
21f. |
[Chor] |
[合唱] |
Wir haben ein Gesetz, und nach dem Gesetz |
我々には律法があり、その律法に照らすと |
soll er sterben; |
彼は死ぬべきであります。 |
denn er hat sich selbst zu Gottes Sohn gemacht. |
自分自身を神の子と称したのですからな。 |
|
|
21g. |
21g. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Da Pilatus das Wort hörete, fürchtet' er sich |
ピラトはその言葉を聞くとさらに恐れ、 |
noch mehr und ging wieder hinein |
また官邸に入って行き、 |
in das Richthaus, und spricht zu Jesu: |
イエスに言った。 |
|
|
[Pilatus] |
[ピラト] |
Von wannen bist du? |
お前はどこから来た? |
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Aber Jesus gab ihm keine Antwort. |
しかしイエスは答えなかった。 |
Da sprach Pilatus zu ihm: |
そこでピラトはイエスに言った。 |
|
|
[Pilatus] |
[ピラト] |
Redest du nicht mit mir? |
余と話すまいとな? |
Weißest du nicht, daß ich Macht habe, |
余にお前を十字架につける権限も、 |
dich zu kreuzigen,und Macht habe, |
釈放する権限もあるのを知らぬか? |
dich loszugeben? |
|
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Jesus antwortete: |
イエスは答えた。 |
|
|
[Jesus] |
[イエス] |
Du hättest keine Macht über mich, |
あなたには私について何の権限もない、 |
wenn sie dir nicht wäre von oben herab gegeben; |
それが上から与えられたものでないのならば。 |
darum, der mich dir überantwortet hat, |
だから私をあなたに引き渡した者の |
der hat's größ're Sünde. |
罪はより大きい。 |
|
|
22. |
22. |
[Choral] |
[コラール] |
Durch dein Gefängnis, Gottes Sohn, |
あなたが囚われの身となられたので、神の御子よ、 |
Muß uns die Freiheit kommen; |
私たちは解き放たれました。 |
Dein Kerker ist der Gnadenthron, |
あなたの牢獄は恩寵の御座、 |
Die Freistatt aller Frommen; |
信仰者たちの避けどころ。 |
Denn gingst du nicht die Knechtschaft ein, |
あなたが隷従をお引き受け下さらなければ、 |
Müßt unsre Knechtschaft ewig sein. |
私たちの隷従は永遠に続くことでしょう。 |
しかしユダヤ人たちはピラトを脅しにかかる。イエスを釈放するなら、あなたを反逆者として皇帝に告発しますよ、と言うのだ。ローマの支配下にあったとはいえ、ユダヤ人たちには一定の自治権も与えられており、総督のリコール権まで持っていたといわれている。ここでは21fと同じ曲調で書かれているが、ちょっとした変奏(21fの旋律に16分音符によってところどころ装飾的音型が付加されている)が相変わらず厳格な物言いをしながらも、背中にはナイフを隠し持っている、といった類のいやらしさが見え隠れする(23b)。この脅しは効いたようで、ピラトはついに正式な裁判を開く(23c)。衆人環視の中、ピラトがイエスを示すや否や、群集は一斉に「殺せ! 十字架につけろ」と叫ぶ。21dに対応しているが、こちらでは福音史家が言い終わらないうちにバスが叫び始め、調も臨時記号としてもシャープ(#)が多く、緊張度の高い響きを持ち(#は十字架や引っ掻き傷を現わし、苦しみ全般の象徴)、より血なまぐささを増している(23d)。つい最近、エルサレム入城するイエスに対して歓声をもって迎え入れた群集が、数日後には流血を要求する暴力集団と化す。自分も含め、人間は誰もがうつろいやすい弱さを持っていることを思い知らされる。ピラトは「王を十字架にかけるのか」と抵抗するが(23e)、祭司長たちは「皇帝の他に王なし」と宣言する。不本意ながらもローマ帝国の軍門に下っていた当時のユダヤ人たちであったが、心の中では彼らを異邦人として蔑んでいただけに、イエスを十字架につけるためとはいえ、はっきりと皇帝への忠誠を口にしたのは驚くべきことである。2b、dの曲がまたも転用されているが、2b、dの時は自信なさげに弱拍で吠えていた合唱が、ここでは確信を持って強拍から出ているのが対照的である(23f)。ついにピラトはイエスを引き渡すことに同意し、イエスは十字架を背負って刑場であるゴルゴタの丘へ向かうことになる(23g)。
23a |
23a. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Die Juden aber schrieen und sprachen: |
しかしユダヤ人たちは叫んで言った。 |
|
|
23b. |
23b. |
[Chor] |
[合唱] |
Lässest du diesen los, |
この者を放免するのならば、 |
so bist du des Kaisers Freund nicht; |
あなたは皇帝の味方ではございませんな。 |
denn wer sich zum Könige machet, |
自らを王と称する者は、 |
der ist wider den Kaiser. |
皇帝に背いておるのですから。 |
|
|
23c. |
23c. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Da Pilatus das Wort hörete, führete er Jesum |
ピラトはこの言葉を聞くとイエスを連れて来て、 |
heraus und satzte sich auf den Richtstuhl, |
裁判の席に着かせた。 |
an der Stätte, die da heißet: Hochpflaster, |
その場所は「敷石」と呼ばれており、 |
auf Ebräisch aber: Gabbatha. |
ヘブライ語では「ガバタ」といった。 |
Es war aber der Rüsttag in Ostern |
時は過越祭の準備日、 |
um die sechste Stunde, |
第6の刻(正午)ごろであった。 |
und er spricht zu den Juden: |
ピラトはユダヤ人に言う。 |
|
|
[Pilatus] |
[ピラト] |
Sehet, das ist euer König! |
見よ、これがお前たちの王だ! |
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Sie schrieen aber: |
彼らは叫んだ。 |
|
|
23d. |
23d. |
[Chor] |
[合唱] |
Weg, weg mit dem, kreuzige ihn! |
殺せ、消し去れ、そいつを十字架につけろ! |
|
|
23e. |
23e. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Spricht Pilatus zu ihnen: |
ピラトは彼らに言う。 |
|
|
[Pilatus] |
[ピラト] |
Soll ich euren König kreuzigen? |
お前たちの王を余が十字架につけよと? |
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Die Hohenpriester antworteten: |
祭司長たちは答えた。 |
|
|
23f. |
23f. |
[Chor] |
[合唱] |
Wir haben keinen König denn den Kaiser. |
我々には王はおりませぬ、皇帝の他には。 |
|
|
23g. |
23g. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Da überantwortete er ihn, |
そこでピラトはイエスを |
daß er gekreuziget würde. |
十字架刑に処すために引き渡した。 |
Sie nahmen aber Jesum und führeten ihn hin. |
彼らはイエスを捕らえ、連行して行った。 |
Und er trug sein Kreuz |
イエスは自らの十字架を背負い、 |
und ging hinaus zur Stätte, |
髑髏(どくろ)の場」と呼ばれるところへ |
die da heißet Schädelstätt, |
出て行った。 |
welche heißet auf Ebräisch: Golgatha. |
ヘブライ語では「ゴルゴタ」という場所である。 |
おどろおどろしさすら感じさせる弦楽器のユニゾンからアリアが始まる(24)。曲は3拍子ではあるが、各楽器とも拍子をずらすようなアクセントが多用され、バスのソロに至っては単体ではいったい何拍子なのか判別困難なほどである。これからゴルゴタで起こる現実から目を逸らしてはいけないと思いつつも、恐怖と葛藤に苛まれ、自問自答を繰り返す。自分の中のもう一つの声を不安げな合唱が担当し、答えは分かりきっているにも関わらず、繰り返し「どこへ?」と問い続ける。
24. |
24. |
[B-Arie & Chor] |
[バス・アリア&合唱] |
Eilt, ihr angefochtnen Seelen, |
急げ、悩める魂よ、 |
Geht aus euren Marterhöhlen, |
行け、お前たちを責め苛む洞より、 |
Eilt ─ Wohin? ─ nach Golgatha! |
急げ──どこへ?──ゴルゴタへ! |
Nehmet an des Glaubens Flügel, |
信仰の翼を身にまとえ、 |
Flieht ─ Wohin? ─ zum Kreuzeshügel, |
逃げろ──どこへ?──十字架の丘へ、 |
Eure Wohlfahrt blüht allda! |
お前たちの幸福はそこで花開く! |
ついにイエスは他のふたりの死刑囚とともに十字架につけられる。ピラトは十字架の上に掛ける罪状標をしたため、そこには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と3ヶ国語で書かれていた。当時ユダヤに住んでいた人々はこれらのいずれかの言語を使用しており、刑場が街からも近かったことから、かなり多くの人々がこの罪状標を見たことであろう(25a)。祭司長たちは面白くない。王を僭称したかどで訴追したのに、ピラトがそれを認めてしまっては、自分たちの大義名分が薄れる。早速ピラトに抗議する(25b)。ここでは21bを転用しているが、先のローマ兵たちの悪ふざけと同じ曲とは思えないほどの表情の違いがあり、演奏者の腕が問われる曲と言えよう。ピラトは祭司長たちの要求をあっさり却下、最後に総督としての意地を見せる(25c)。
25a. |
25a. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Allda kreuzigten sie ihn, |
そこで彼らはイエスを十字架につけた。 |
und mit ihm zween andere zu beiden Seiten, |
他にふたりがイエスと共に両側に、 |
Jesum aber mitten inne. |
イエスを中央にして十字架につけられた。 |
Pilatus aber schrieb eine Überschrift |
ピラトは罪状標を書き、 |
und satzte sie auf das Kreuz, |
十字架の上に掲げた。 |
und war geschrieben: |
そこにはこう書かれていた。 |
Jesus von Nazareth, der Juden König. |
「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」 |
Diese Überschrift lasen viel Juden, |
この罪状標を多くのユダヤ人が読んだ。 |
denn die Stätte war nahe bei der Stadt, |
街に近い場所で |
da Jesus gekreuziget ist. |
イエスが十字架につけられたからである。 |
Und es war geschrieben auf ebräische, |
それはヘブライ語、 |
griechische und latenische Sprache. Da sprachen |
ギリシャ語、ラテン語で書かれていた。 |
die Hohenpriester der Juden zu Pilato: |
そこでユダヤの祭司長たちはピラトに言った。 |
|
|
25b. |
25b. |
[Chor] |
[合唱] |
Schreibe nicht: der Juden König, |
「ユダヤ人の王」とは書かず、 |
sondern daß er gesaget habe: |
「彼は『私がユダヤ人の王だ』と僭称した」 |
Ich bin der Juden König. |
と書いていただきたい。 |
|
|
25c. |
25c. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Pilatus antwortet: |
ピラトは答える。 |
|
|
[Pilatus] |
[ピラト] |
Was ich geschrieben habe, |
余が記したものは、 |
das habe ich geschrieben. |
余が記した通り。 |
|
|
26. |
26. |
[Choral] |
[コラール] |
In meines Herzens Grunde |
私の心の底には |
Dein Nam und Kreuz allein |
あなたの御名と十字架のみがあり、 |
Funkelt all Zeit und Stunde, |
いついかなる時にもきらめき、 |
Drauf kann ich fröhlich sein. |
それによって私は喜びに満ちていられる。 |
Erschein mir in dem Bilde |
どうか私に御姿を現してたまえ、 |
Zu Trost in meiner Not, |
私の苦難の慰めとして。 |
Wie du, Herr Christ, so milde |
主キリストよ、どれほどまであなたは柔和に |
Dich hast geblut' zu Tod! |
死に至る血を流されたことか! |
さて十字架刑を執行したのはローマ兵たちであるが、当時の死刑執行人には、死刑囚の持ち物を自分のものにする権利が与えられていた。イエスの着物を4つに分けてそれぞれ取ったところから、執行人は4人のグループだったようだ(27a)。下着も同じように分けるのはもったいないと思った彼らは、誰が取るか賭けで決めよう、と口々に言い合う(27b)。この賭けはサイコロ賭博であったと考えられており、バッハもサイコロが転がる様子をチェロの素早い分散和音で現わしている。また合唱も
losen(くじを引く)の部分はサイコロを転がす様子を16分音符の連続で示す。チェロによる転がるサイコロの描写は3度に亘って動きを止め、その度に執行人たちの視線が興奮とともに集中する。1度につきひとりが脱落していき、3度目に当選者が決まり、その場限りの大団円を迎える。この一見下世話で、主の受難と関係なさそうな出来事はしかし、預言の成就であったと福音史家は証言する。ふと十字架の傍らに視線を移すと、イエスに従ってきた婦人たちとともに、イエスの母マリアとイエスが愛しておられた弟子(ヨハネと考えられている)が佇んでいる。イエスはその弟子に母の後事を託す(27c)。
27a. |
27a. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Die Kriegsknechte aber, da sie Jesum |
イエスを十字架につけた兵士たちは |
gekreuziget hatten, nahmen seine Kleider |
彼の着物を取り4つに分け、 |
und machten vier Teile, einem jeglichen |
各々がひとつずつを取り、 |
Kriegesknechte sein Teil, dazu auch den Rock. |
腰巻も同様にしようとした。 |
Der Rock aber war ungenähet, |
しかしその腰巻には縫い目がなく、 |
von oben an gewürket durch und durch. |
上から下までひとつ織りであった。 |
Da sprachen sie untereinander: |
そこで彼らは互いに言った。 |
|
|
27b. |
27b. |
[Chor] |
[合唱] |
Lasset uns den nicht zerteilen, |
こいつは裂かないで、 |
sondern darum losen, wes er sein soll. |
くじ引きで誰のもんになるか決めようぜ。 |
|
|
27c. |
27c. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Auf daß erfüllet würde die Schrift, die da saget: |
このことはこの預言が成就するためであった。曰く、 |
Sie haben meine Kleider unter sich geteilet |
「彼らは私の着物を各々に分け、 |
und haben über meinen Rock das Los geworfen. |
私の腰巻についてくじを引いた」(詩編22:19)。 |
Solches taten die Kriegesknechte. |
兵士たちはその通りにしたのだった。 |
Es stund aber bei dem Krueze Jesu seine Mutter |
イエスの十字架の傍らには彼の母、 |
und seiner Mutter Schwester, Maria, |
その母の姉妹、クロパの妻マリア、 |
Kleophas Weib, und Maria Magdalena. |
そしてマグダラのマリアとが立っていた。 |
Da nun Jesus seine Mutter sahe |
イエスはその母と |
und den Jünger dabei stehen, den er lieb hatte, |
彼が愛していた弟子がそばに立っているのを見て、 |
spricht er zu seiner Mutter: |
母に向かって言う。 |
|
|
[Jesus] |
[イエス] |
Weib, siehe, das ist dein Sohn! |
婦人よ、ご覧あれ、あなたの息子だ。 |
|
|
[Evangelist] |
[福音史家] |
Darnach spricht er zu dem Jünger: |
それからその弟子に言う。 |
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[Jesus] |
[イエス] |
Siehe, das ist deine Mutter! |
見なさい、君の母だ。 |
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28. |
28. |
[Choral] |
[コラール] |
Er nahm alles wohl in acht |
彼はすべてのことによく気を配られた、 |
In der letzten Stunde, |
その最期の時において。 |
Seine Mutter noch bedacht, |
ご自身の母に配慮し、 |
Setzt ihr ein' Vormunde. |
彼女に後見人を定めたもう。 |
O Mensch, mache Richtigkeit, |
おお人よ、正しきを行ない、 |
Gott und Menschen liebe, |
神と人とを愛し、 |
Stirb darauf ohn alles Leid, |
そうしてすべての憂いなしに死に行くべし、 |
Und dich nicht betrübe! |
悲しむことなかれ! |
イエスは最期の時が迫っていることを知り、預言を成就するために「渇く」とつぶやくが、実はこの出来事こそが、かつてイエスが「わたしの与える水を飲む者は決して渇かない(ヨハネ4:14)」という救いのみ言葉の対象から、他ならぬイエスご自身が外されたことを意味している。こうしてこの世のすべての罪を背負い、父なる神からも見放され、むごい死を迎えることによって、救いの完成を「Es
ist vollbracht(すべて果たされた)」という言葉で宣言する(29)。この言葉をヴィオラ・ダ・ガンバとアルトが引き取り、7で示した旋律の完成型を示す。一見すると暗く、死の悲しみから抜け切れていないようにも見える曲調だが、その旋律の行き先は最後まで確信に満ちており、ゆっくりとしかし確実に、後戻りや逡巡のない音楽が続く。さらに高らかなファンファーレをもって勝利を高らかに宣言し、またEs
ist vollbrachtという言葉とともに曲を締めくくる(30)。
29. |
29. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Und von Stund an |
その時以来、 |
nahm sie der Jünger zu sich. |
その弟子は彼女を自分の許に引き取った。 |
Darnach, als Jesus wußte, |
この後、イエスは |
daß schon alles vollbracht war, |
すでにすべてが果たされたことを知り、 |
daß die Schrift erfüllet würde, spricht er: |
預言が成就するために言う。 |
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[Jesus] |
[イエス] |
Mich dürstet! |
渇く!(詩編69:22) |
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[Evangelist] |
[福音史家] |
Da stund ein Gefäße voll Essigs. |
そこには葡萄酢(酢と葡萄酒の混ぜもの)が |
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満たされた容器があった。 |
Sie fülleten aber einen Schwamm mit Essig |
人々は海綿に葡萄酢を含ませて |
und legten ihn um einen Isopen, |
ヒソプに取り付け、 |
und hielten es ihm dar zum Munde. |
イエスの口許に差し出した。 |
Da nun Jesus den Essig genommen hatte, |
イエスは葡萄酢を受けると言った。 |
sprach er: |
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[Jesus] |
[イエス] |
Es ist vollbracht! |
すべて果たされた! |
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30. |
30. |
[A-Arie] |
[アルト・アリア] |
Es ist vollbracht! |
すべて果たされた! |
O Trost vor die gekränkten Seelen! |
おお、病める魂たちの慰めよ! |
Die Trauernacht |
服喪の夜は |
Läßt nun die letzten Stunde zählen. |
今や最期の時を数えさせる。 |
Der Held aus Juda siegt mit Macht |
ユダより生まれし英雄、権威をもって勝利し |
Und schließt den Kampf. |
戦いを終わらせる。 |
Es ist vollbracht! |
すべて果たされた! |
イエスは救いを完成させ、息を引き取る(31)。後を受けてバスが通奏低音とともに歌い始めるが、両者とも不規則な拍子、スムーズに移行しにくい跳躍音程の連続、さらにテーマにはトリルまでもが使用され、「すべて果たされた」との言葉を聞きながらも、未だ割り切れない思いをイエスに問いかける。それを包みこむようにコラールが静かに祈りの言葉を唱えるが、こちらにはつまずきを現わすような音の揺れは皆無で、実に対照的な音楽が同時に、それでいて絶妙な調和を生み出しつつ進む(32)。
31. |
31. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Und neiget das Haupt und verschied. |
そして頭を垂れ、息を引き取った。 |
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32. |
32. |
[B-Arie & Choral] |
[バス・アリア&コラール] |
Mein teurer Heiland, laß dich fragen, |
わが大切な救い主よ、問わせたまえ、 |
Jesu, der du warest tot, |
イエス、あなたは死なれ、 |
Da du nunmehr ans Kreuz geschlagen |
あなたは今や十字架に打ちつけられ |
Lebest nun ohn Ende, |
今や終わり無く生きたもう。 |
Und selbst gesagt: Es ist vollbracht, |
そして自ら「すべて果たされた」と仰せになった。 |
Bin ich vom Sterben frei gemacht? |
私は死から解放されたのですか? |
In der letzten Todesnot |
いまわの苦しみの時に |
Nirgend mich hinwende |
私の行き場はどこにもない、 |
Kann ich durch deine Pein und Sterben |
私はあなたの苦しみと死によって |
Das Himmelreich ererben? |
天の御国を嗣ぐことが出来るのですか? |
Ist aller Welt Erlösung da? |
すべての世の救いはそこにあるのですか? |
Als zu dir, der mich versühnt, |
私を罪から贖って下さるあなたの許の他には。 |
O du lieber Herre! |
おお、愛する主よ! |
Du kannst vor Schmerzen zwar nichts sagen, |
苦痛のためあなたはひと言も語れず |
Gib mir nur, was du verdient, |
ただ与えたまえ、あなたの功を |
Doch neigest du das Haupt |
しかし頭を垂れ |
Und sprichst stillschweigend: ja. |
沈黙のうちに「然り!」と仰せになる。 |
Mehr ich nicht begehre! |
それ以上のものは望みません! |
ここでバッハは12cに続いて再びマタイ伝から実に劇的な場面を引用している。真っ二つに裂ける神殿の幕、揺れ動く地、裂ける岩、開く墓、甦る聖徒たち(33)。12cの引用時も続く曲はテノールソロだったが、ここでも次のアリオーゾはテノールが担当している(34)。このテノールは13の時と同じく、行き所を見出せない自分の心の苦悩を歌う。
33. |
33. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Und siehe da, der Vorhang im Tempel zerriß |
すると見よ、神殿の幕が上から下まで |
in zwei Stück von oben an bis unten aus. |
上から下まで真っぷたつに裂けた。 |
Und die Erde erbebete, und die Felsen zerrissen, |
そして地は揺れ動き、岩々は裂け、 |
und die Gräber täten sich auf, |
墓が開き、 |
und stunden auf viel Leiber der Heiligen. |
数多の聖なる者たちの遺体が生き返った。 |
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(この部分、マタイ27:51-52より) |
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34. |
34. |
[T-Arioso] |
[テノール・アリオーゾ] |
Mein Herz, in dem die ganze Welt |
わが心よ、その中で全世界が |
Bei Jesu Leiden gleichfalls leidet, |
イエスの苦難を等しく苦しみ、 |
Die Sonne sich in Trauer kleidet, |
太陽は悲嘆に覆われ、 |
Der Vorhang reißt, der Fels zerfällt, |
幕は裂け、岩は崩れ、 |
Die Erde bebt, die Gräber spalten, |
地は揺れ、墓は割れる。 |
Weil sie den Schöpfer sehn erkalten. |
創造主が冷たくなっているのを見るからだ。 |
Was willst du deines Ortes tun? |
お前は己が場所で何をなすつもりか? |
フルートとオーボエ・ダ・カッチャと通奏低音による調べは物悲しく、どのパートも強拍を避ける傾向にあり、やりきれない思いを足取り重く奏でる(35)。しかし第1曲のヴァイオリンと同様の旋回音型や、(1拍目を欠くとはいえ)やはり第1曲の通奏低音と同様の同音反復型が現われ、生命の波動がすでに蠢き始めており、決して死=停滞ではないことを控え目ながら現している。ソプラノは比較的きっぱりとした物言いに終始するが、tot(死んだ)という語はすべて2音符以上に跨らせ、あるいはヴィブラートを付加されており、動きを伴わない
tot が存在しない。そこには紛れもない「死」があると同時に、それが新しく、そして完全なる「生」をもたらすものであることをうかがわせる。
35. |
35. |
[S-Arie] |
[ソプラノ・アリア] |
Zerfließe, mein Herze, in Fluten der Zähren |
融けて流れよ、わが心よ、涙溢れる潮の中に |
Dem Höchsten zu Ehren! |
いと高き者の栄光のために! |
Erzähle der Welt und dem Himmel die Not: |
この苦悩を世とまた天に語れ |
Dein Jesus ist tot! |
「汝がイエスは死にたまえり」と! |
申命記21:22-23によれば、「木にかけられた死体は神に呪われたものであるから、死体をそのままにして夜を過ごしてはならない。必ずその日のうちに埋めなければならない」とのこと。イエス絶息の時刻は午後3時ごろだったという。ユダヤの規定では日付が替わるのは日没なので、その日はあと数時間で終わる。あまつさえ翌日は特別な安息日、一刻も早く後片付けをするべく、死刑囚たちにとどめを刺すこととなった。その方法とは磔刑囚の脚を斧で叩き折ることで、そうされると釘で打ち付けられた腕だけでは自分の体重を支え切れず、やがて窒息して絶命に到る。イエスと同じく十字架にかけられたふたりはこうしてとどめを刺されたが、イエスはすでに死んでいたので、脚を折られることはなかった。しかし念のためにと思ったか、兵士の一人が槍で脇腹を突き刺す。この一連の出来事も預言の成就であったと、福音史家によって説明される(36)。
36. |
36. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Die Juden aber, dieweil es der Rüsttag war, |
その日は準備日であり、ユダヤ人たちは |
daß nicht die Leichname am Kreuze blieben |
翌安息日まで十字架上に遺体を残しておくのを嫌い |
den Sabbath über (denn desselbigen Sabbaths |
(その安息日は特別に大事な日であった)、 |
Tag war sehr groß), baten sie Pilatum, |
ピラトに願い出て、死刑囚たちの脚を折って |
daß ihre Beine geborchen und sie abgenommen |
遺体を取り降ろすよう求めた。 |
würden. Da kamen die Kriegsknechte |
そこで兵士たちがやって来て、 |
und brachen dem ersten die Beine |
まずイエスと共に十字架につけられた |
und dem andern, der mit ihm gekreuziget war. |
死刑囚のひとり目、続いてもうひとりの脚を折った。 |
Als sie aber zu Jesu kamen, da sie sahen, |
しかし彼らがイエスの前にやって来た時、 |
daß er schon gestorben war, |
イエスがすでに死んでいるのを見て取って、 |
brachen sie ihm die Beine nicht; |
その脚を折りはしなかったが、 |
sondern der Kriegsknechte einer |
兵士のひとりが |
eröffnete seine Seite mit einem Speer, |
槍でイエスのわき腹を突き刺すと |
und alsobald ging Blut und Wasser heraus. |
直ちに血と水とが流れ出て来た。 |
Und der das gesehen hat, der hat es bezeuget, |
その出来事を見ていた者が証言し、 |
und sein Zeugnis ist wahr, |
その証言は真実である。 |
und derselbige weiß, daß er die Wahrheit saget, |
その者は自分が真実を語り、 |
auf daß ihr gläubet. |
それをあなた方が信じることを知っている。 |
Denn solches ist geschehen, |
これらの事が起こったのは、 |
auf daß die Schrift erfüllet würde: |
この預言が成就するためであった。 |
Ihr sollet ihm kein Bein zerbrechen. |
「あなた方はその脚を砕いてはならない」 |
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(出エジプト12:46、民数9:12) |
Und abermal spricht eine andere Schrift: |
また、他の預言ではこう言われている。 |
Sie werden sehen, in welchen sie gestochen |
彼らは自分たちが刺し貫いた者を見る」 |
haben. |
(ゼカリヤ12:10) |
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37. |
37. |
[Choral] |
[コラール] |
O hilf, Christe, Gottes Sohn, |
おお、お助けを、キリスト、神の御子よ、 |
Durch dein bitter Leiden, |
あなたの厳しい苦しみによって。 |
Daß wir dir stets untertan |
我々は常にあなたに臣従し |
All Untugend meiden, |
すべての悪を避け、 |
Deinen Tod und sein Ursach |
あなたの死とその原因を |
Fruchtbarlich bedenken, |
実り多く思案し、 |
Dafür, wiewohl arm und schwach, |
ために貧しく弱くあっても、 |
Dir Dankopfer schenken! |
あなたに感謝の供え物を捧げられるように! |
ユダヤの律法によれば、死体は不浄なもの(磔刑囚のものなら尚更である)なので、それに触れたものも汚れる。祭司長たちが汚れを嫌い、総督官邸に足を踏み入れることさえ避けたのとは対照的に、ヨセフとニコデモは自分たちが不浄なものとなり、その上にイエスに肩入れしたということで訴追の対象にもなり得る危険を冒して、イエスの埋葬を敢行する。二人はこの処刑を阻止出来なかったことで、無力感に苛まれていたことだろう。そんな暗い思いを示すかのように、福音史家の旋律にも低い音が目立つ。しかし通奏低音は最後の和音として最低音であるC音を長く引き伸ばすことによって完全性を強調し、救いの完成を予期させる(38)。
38. |
38. |
[Evangelist] |
[福音史家] |
Darnach bat Pilatum Joseph von Arimathia, |
その後、アリマタヤのヨセフがピラトに願い出た。 |
der ein Jünger Jesu war |
彼はイエスの弟子であり |
(doch heimlich aus Furcht vor den Juden), |
(もっとも、ユダヤ人を恐れて秘密裏にであった)、 |
daß er möchte abnehmen den Leichnam Jesu. |
イエスの遺体を引き取りたいと求めたのだった。 |
Und Pilatus erlaubete es. |
ピラトがそれを許可したので、 |
Derowegen kam er und nahm den Leichnam |
彼はやって来てイエスの遺体を取り降ろした。 |
Jesu herab. Es kam aber auch Nikodemus, |
ニコデモもそこにやって来た。 |
der vormals bei der Nacht zu Jesu kommen war, |
彼は以前、夜中にイエスのところに来ていた人である。 |
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(ヨハネ3:1-21) |
und brachte Myrrhen und Aloen untereinander, |
彼は没薬と沈香の混ぜものを |
bei hundert Pfunden. |
100リトラほど持って来た。 |
Da nahmen sie den Leichnam Jesu |
彼らはイエスの遺体を受け取り、 |
und bunden ihn in leinen Tücher |
香料と共に亜麻布で包んだ。 |
mit Spezereinen,wie die Juden pflegen |
それはユダヤ人たちの埋葬と同様の手順である。 |
zu begraben. Es war aber an der Stätte, |
イエスが十字架につけられた場所の近くには |
da er gekreuziget ward, ein Garte, |
園があり、 |
und im Garten ein neu Grab, |
その園の中に新しく、 |
in welches niemand je geleget war. |
まだ誰も葬られていない墓があった。 |
Daselbst hin legten sie Jesum, |
彼らはそこにイエスを納めた。 |
um des Rüsttags willen der Juden, |
ユダヤ人にとってその日は準備日であり、 |
dieweil das Grab nahe war. |
その墓が近かったためである。 |
悲しみをこらえるような印象的なメロディーをヴァイオリン1と高音部木管楽器が総動員で奏でる(39)。歌詞は「もう決して泣くまい」との決意を歌っているが、メロディーラインは同じテーマを何度も繰り返しており、そうすることによって気分を紛らわし、かろうじて涙がこぼれるのを食い止めているかのようである。中間部では合唱のアクセントがことごとく拍子から外れる箇所が2度に亘ってあり、悲しみの深さによる強い葛藤を示すが、その時の通奏低音(2回目は弦楽器)は4分音符を3回ずつ繰り返し、頑に3拍子であることを崩さない。3は神を象徴する数字でもあり、人の想いがどう揺れ動こうと、神の救いの計画には揺らぎがないことを示す。吹っ切れたいような内容の歌詞とは裏腹に曲は悲しみをたたえたまま終わり、ヨハネ受難曲の理念を溢れんばかりの喜びで集約したかのようなコラール(40)に最後を任せる。
39. |
39. |
[Chor] |
[合唱] |
Ruht wohl, ihr heiligen Gebeine, |
安らかにお休みあれ、聖なる骸よ、 |
Die ich nun weiter nicht beweine, |
私は今をもってもうあなたに涙しません。 |
Ruht wohl und bringt auch mich zur Ruh! |
安らかにお休みを、そして私をも安息に導きたまえ! |
Das Grab, so euch bestimmet ist |
あなたに定められた墓は |
Und ferner keine Not umschließt, |
もはや苦しみを包み込むことなく、 |
Macht mir den Himmel auf |
私に天の御国を開き、 |
und schließt die Hölle zu. |
そして地獄を閉ざす。 |
|
|
40. |
40. |
[Choral] |
[コラール] |
Ach Herr, laß dein lieb Engelein |
ああ主よ、あなたの愛する天使を遣わし、 |
Am letzten End die Seele mein |
最期のときには |
In Abrahams Schoß tragen, |
私の魂をアブラハムの懐へ運びたまえ。 |
Den Leib in seim Schlafkämmerlein |
小さき寝所の身体は |
Gar sanft ohn einge Qual und Pein |
全く安らかに少しの苦しみも痛みもなく |
Ruhn bis am Jüngsten Tage! |
終末の日に到るまで憩わせたまえ! |
Alsdenn vom Tod erwecke mich, |
その日には私を死から呼び覚ましたまえ |
Daß meine Augen sehen dich |
わが眼があなたを見られるように |
In aller Freud, o Gottes Sohn, |
喜びにあふれつつ、おお神の御子、 |
Mein Heiland und Genadenthron! |
わが救い主、恵みの御座よ! |
Herr Jesu Christ, erhöre mich, |
主イエス・キリストよ、聴きたまえ |
Ich will dich preisen ewiglich! |
私はあなたをとこしえにほめ讃えます! |
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